聴くと読む

内田先生の文章は「読む」とほーって思う。聴くとどんなもんなのでしょうね。聴いてみたい。

読んでもわからないことが聴いたらわかったということがある。
それは聴き取られた言語音はダイレクトに肺腑や腸や心臓に触れてくるからである。
例えば、私たちを深く傷つける言葉がいつまでも忘れられないという場合、それがかりに手紙に書かれた言葉であったとしても、脳裏をよぎるのは文字の「視覚映像」ではなく、「想像的に聴き取られた音」である。

そうだよね、と経験的にわかる。メールを読んだってさっぱり分からないことがある。本を読んでもさっぱり分からないことがある。そういうときはとっとと電話して、話するのが早い。

私はそのメッセージが私にとってどういう意味をもつものであったのかを「事後的に」知るのである。
言語情報が入力されたときに、それをただちに複雑で多様な身体的変化に「変換」する能力がコミュニケーションの基礎にある。
「言葉が届かない人間」は、メッセージの辞書的語義は理解しているのだが、それが身体的変容をもたらすことがない。
だから、それが自分にとって何を意味するのか(生存戦略上有利なことなのか、不利なことなのか、それどう応じるのが最適オプションなのか)がよくわからない。
コミュニケーション感度のよい人間は、発話者が話し始める前に短く息を吸っただけで、続くメッセージがどの程度の重要性をもつものかを近似的に判定することができる。

逆に話しててもさっぱり分からないこともある。それは要するに、相手の語りがもたらす意味が自分にとって全くリアルでないことを示している。リアルでない話を「えい」ととりあえず消化するには、「読む」はとてもいいと感じる。

「読む」と「聴く」の使いこなしは、コミュニケーションの感度を高めるはず。自分自身、精進しなければと本当に思う。