99.9%は仮説

今日は色々とパソコンをいじくったりしてて、その後に打ち合わせの予定があったので梅田へ。それが終わったら色んな人とだらだら話して別れた後、コーヒー飲みながら、『99.9%は仮説』を読む。

仮説は仮説として置いておくという節度。これはこの本の中でも言及されてるけど、あらゆる物事に対しての節度として役に立つと思う。合間合間にフランシス・ベーコンだったり、カール・ポパーの「反証可能性」の話だったり、エーテルの話だったり、はたまた超ひも理論だったりが書かれてるけど、一貫して貫かれているのはそのような「節度ある知性」だろう。

どっかで見たことがある立ち位置だよなぁ…なんて、共感しながらも思っていたのだが、内田樹先生の『ためらいの倫理学』の中で読んだ、「とほほ主義」になんか近いものを感じたのだ。内田先生のいいところはネットでも読めるところ。とほほ主義はこちら辺りから。

僕は節度ある知性を担保する仕組みとして、民主主義を支持する。だから民主主義それ自体が知性を失ったときには、その優位性は消滅してしまうと思う。それがこれまでの多く繰り返されてきた悲劇の典型的な例題だろう。逆にいえばもっときちんと担保することこそが、現代の課題なのだ。

若干話がそれたけど、とても読みやすくて面白い本でした。最近の光文社新書はなんだかすごいね。


99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)

99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

神の目線って。

梅田望夫さんの『ウェブ進化論』は相変わらずはまっているが、色んな視点からの議論が見れて、ウェブって面白いなぁとしみじみ思ってみた。その中で、阿部重夫さんの「ウェブ進化論2――ラムズフェルドの民主主義」と題したものがあって、なんか違和感があるなぁ…と思ってたら、「404 Blog Not Found:神の視点!?いやいや、あれは元気玉。」を読んで深く納得。

むしろ、この「(≒無限大)×(≒無)=Something」という、Googleが提示した新しい「神」は、「神」というより「ドラゴンボール」の元気玉に近い。知らない人のために説明すると、元気玉とは同書の主人公孫悟空が、生きとし生けるものの「気」を少しずつ集めて作る「武器」で、これを使う事と宇宙最強の敵とも渡り合える。

失礼ながら笑ってしまったが、とても納得。あとはこうした人々の意見の精度だなぁと思う。いみじくもオルテガが「大衆の反逆」と言ってみたり、ニーチェが「畜群」と言ってみたり、フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と言ってみたり、とにかくここには悲観的な見方が多かった訳で、課題は多い。

ただ情報という切り口は本当に可能性があると思っていて、多くの時間、資金、労的なコストの元で断念されてきた情報が共有されれば、変わる可能性のあることも多い。それを「こちらの世界」でいかに実現するか…。

ちなみに阿部さんの記事は3部作?で、3番目の「ウェブ進化論3――「離魂」のロングテール」は面白かった。

とはいえ、アマゾンだって「こちら側」、つまり物流がどれだけ過酷な低賃金労働のもとに成り立っているか、人材派遣業者なら知らぬ者はない。物流と人事管理の徹底したその合理主義は、「もうひとつのウォルマート」とも言える。非対称性を除去してしまう「完全市場」とは、実は「市場の死」ではないかと言いたくなる誘惑に駆られる。

この辺りはどうしてもぶつかる課題だなと思う。本文で触れられてる吉本隆明でいうと、『マチウ書試論』で扱われる「関係の絶対性」なんかを思い出し、ふーむなんて思ってしまった。

全体的にはgoogleだけではなくてテクノロジーに対しての誤解があるんだろうなと思いつつも、部分部分においては、その抱えている課題を描いてもいるようにも思ったりする。…どっちつかずではあるけれど。


ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

善悪の彼岸 (岩波文庫)

善悪の彼岸 (岩波文庫)

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

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マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

他者なき時代の時間

ちょっと前になるけど、若者の静かな憤怒:社会分析的ブログが面白かった。

等価交換を原理にする限り、僕らの世代には希望もへったくれもない。構造的に年金は損するしかないし、世界がよくなっていく方向性もあまり見えない。その結果としてはこれまで溜めてきた「債権」を取り戻そうとする動きはあって当たり前であるし、そのことを非難してもはじまらない。

「将来の展望を,現在の努力」へと織り込むという,時間を「先取り」する思考のサイクル――むしろ「意志」――が消えてしまって,「現在の債務を,いますぐ取り立てる(しかない)」という刹那主義へ。

これって言い換えれば,「時間」が止まったということではないか。

未来がない,ということはそういうことである。

これはその通りだと思う。もっといえば、時間なきところには他者はない。レヴィナスは「実存すること」と「実存者」の間で起こる様々なことを通して、現在と未来、過去を考えた。時間が流れるには他者が必要なのだ。それがこの時代を端的に表しているというのは納得できる。

これに対して贈与という考え方はある。

このシステムのポイントは,「時間を−与える」(デリダ)ということである。すなわち,いまあげたプレゼントの返礼が,いま返って来なくてもよい,という構えが,全員に必要である。

これもまぁ、そうだと思う。と同時に考えておきたいのは、贈与が見返りを期待するのかどうかということ。バタイユのようにひたすら使い尽くすというのもアリではないだろうか。

どちらにせよ言えることは端的なスパンで、功利的な見返りを価値判断の基準にするのではなくて、「待つ」ことだったり、功利的とは異なる基準を用意することであったりする。そうして新しい世界を切り開くほかは、ないのかも知れない。

「無学歴、無職歴、無実力のニートが年収500万円の正社員になる方法」とも絡めて考えたかったけど、うまいこと思いつかなかった。うだうだしてないで、エントリーシート書こう。