他者なき時代の時間
ちょっと前になるけど、若者の静かな憤怒:社会分析的ブログが面白かった。
等価交換を原理にする限り、僕らの世代には希望もへったくれもない。構造的に年金は損するしかないし、世界がよくなっていく方向性もあまり見えない。その結果としてはこれまで溜めてきた「債権」を取り戻そうとする動きはあって当たり前であるし、そのことを非難してもはじまらない。
「将来の展望を,現在の努力」へと織り込むという,時間を「先取り」する思考のサイクル――むしろ「意志」――が消えてしまって,「現在の債務を,いますぐ取り立てる(しかない)」という刹那主義へ。
これって言い換えれば,「時間」が止まったということではないか。
未来がない,ということはそういうことである。
これはその通りだと思う。もっといえば、時間なきところには他者はない。レヴィナスは「実存すること」と「実存者」の間で起こる様々なことを通して、現在と未来、過去を考えた。時間が流れるには他者が必要なのだ。それがこの時代を端的に表しているというのは納得できる。
これに対して贈与という考え方はある。
このシステムのポイントは,「時間を−与える」(デリダ)ということである。すなわち,いまあげたプレゼントの返礼が,いま返って来なくてもよい,という構えが,全員に必要である。
これもまぁ、そうだと思う。と同時に考えておきたいのは、贈与が見返りを期待するのかどうかということ。バタイユのようにひたすら使い尽くすというのもアリではないだろうか。
どちらにせよ言えることは端的なスパンで、功利的な見返りを価値判断の基準にするのではなくて、「待つ」ことだったり、功利的とは異なる基準を用意することであったりする。そうして新しい世界を切り開くほかは、ないのかも知れない。
「無学歴、無職歴、無実力のニートが年収500万円の正社員になる方法」とも絡めて考えたかったけど、うまいこと思いつかなかった。うだうだしてないで、エントリーシート書こう。