本当にそれでいいの?

http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009061801000082.html
人の死はそんなに決めれますか。エコファシズムのようなことは起こりませんか。当然、法案化が急がれる背景はいるし(そこに人はいるのだから)、敢えていうと臓器を買いに行く動きには限界があるし、そもそも日本で出来ないから外国で買いましょうってどうなのという話もあるのは重々承知しているが・・。
脳死は人の死というのは、命を定義づけることに近い。(命の終わりを定義づけたといえる)それは、そんなに自明のことなのだろうか。(正確には死でないことは明らかで、死であることにする、、というのが今回の話)
脳死point of no returnである可能性がかなり高い状態、というのはそう。ただ、これは自明のことではなくて変化がどんどん起こっている話。
言い換えると、人間の生命は一種の変化していくプロセスであり、脳死の状態はそのプロセスの一瞬間に過ぎなく、どの地点から生で、どの地点から死なのかは、時代時代の判断になっている例えば脳死患者は体は暖かく、爪、髪は伸びる。しかし意識がないのではないか、そういう話。
では意識というのは自明なものとして、解明されたのかというとそんなことはなく、心身問題、心の哲学の問題として、未だに大きな問題だと思っている。
ただ言えるのは、人間の生は、ただ存在するとは別の仕方で、存在するということが言えるし、そこの価値付けにこそ、人間の生があるということも言える。そういう価値のところに着目するとすると、例えば人間の関係、というところは配慮する必要があるのではないか。人間の社会的な関係性(例えば家族、友人など)の視点では、生前も、死後も、ある程度まで人は生きている。(生まれる前から楽しみにされる・・。死んだ後も天国に行ったと思いたい・・。)この視点は、その人との関係性に応じて異なってくるのがポイント。果たして、そういう視点での検討はどうか。
臓器移植の是非は置いておいて、尚早なのでは、という気はする。確かに議論のロードマップをある程度描かないと進めないじゃん!っていう思いがあるのだろうことには、同意するけど。

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だいぶはなし変わるけど、こういうのは考え方としてすごい面白いね。
「医療倫理に対する宗教学的アプローチ」、『民医連医療』2005年9月号 | 論文 | 研究活動 | 小原克博 On-Line