ロングテールをキャッチャーする

ちょっと去年の年末に落書きしてたメモが見つかったので、こっちにも書いとく。それにしても、もはや意味不明なタイトルだ。キャッチャーがロングテールだ、という方がいいような気がする。たぶん、そうだ。
キャッチャー・イン・ザ・ライ 』は最初読んだとき、意味が分からなかった。たぶん、中学生くらいのとき。自分なりに読んでみて、子どもとおとなっていう問題でもないだろ…と思ったし、面白くないわけではないのだが、反抗期って感じでもなかったので、リアルな感じではなかった。で、内田先生の「お掃除するキャッチャー」を読んで、ちょっと面白くなってきたので、改めて買ってきて、読んだりしてみた。
そうやって時間を置いて、改めて見てみるとなんとなく見えるものもある気はしてくる。
そうか!一種のビジョンクエストなのか!という感じ。確かにキャッチャーはその役目故に、対価を得るということ抜きにして話が成立しているけど、その背景には自分が為すべきことがあるという強い確信があるようにも思う。キャッチャーというある種で理不尽な(いわゆる客観的な視点でいうと)役割は、ビジョンクエストのようなものに支えられた確信がどこかにあると思う。
じゃあ、あの話の中では?そこが問題。だけど、たぶんそんな大げさな話ではないような気がする。(神を前提におけば、行為はともかくとしてビジョンクエストの理路も大げさではないと思う)その「大げさでない感じ」がとても大事。
大げさでないことによって、大げさでないことをする。それがうねりを作っていく。少しずつのロングテールをかき集めれば、パレートの法則とも戦えるさ。(無茶だけど…)
逆にいえば、「大げさでない感じ」をあらゆる場所で作り出していくこと、もしくはあらゆる場所で失われないようにすることが、大事なことなのかもしれない。
メモだけあって、判読不能な部分も多かった。。でもちょっと、思い出せて嬉しい気分。

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

ネイティブ・マインド―アメリカ・インディアンの目で世界を見る

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