歴史の歴史性と科学
ホテル・ルワンダのパンフの件は諸々と議論が起こっていて、「ほー」という他ない。おおよそ、議論は尽くされているように思うし、僕が何か新しい議論を起こせるほど、知識に富んでるわけでもない。ただ、見ていると以下の点に分かれるのかなという印象。
- 議論をすることはアリかなしか。
これはありだというのが大勢のように思うし、僕もそう思う。ただこうした機会を持つにあたっての条件やエートスが問題になってる。
- 元テキストを読むべきか否か
この点については「誤解」がなければいいのか、そもそも読まないとはじまらないのかという点。僕はどちらかといえば後者だが、前者を否定するつもりはない。ただ前者には常にリスクがつきまとう。それは「誤解していない」と判定しうる基準を自己の中に持ち得ないことであり、そう指摘されうるという点だ。だから常にその意図の正しさについて、懐疑的に見られる可能性は考慮しておかなければいけないと思う。
- 歴史の特殊性
実際の中身の話でいえばたぶん、なんだかんだ言ってここが問題になってるような気もする。関東大震災の際の虐殺と、アウシュヴィッツと、通州事件と、そしてルワンダにおけるツチ族とフツ族と…。または町山さんの提出されていた、ウルトラマンにも描かれていたような戦後の沖縄出身者に対する差別*1なのか。
歴史の底に普遍的な何かを見出すことが出来るのだとすれば、それがルワンダの悲劇と自分達にひきつけようという試みを肯定することになるだろうし、それがなければ、こうした試みは特殊性を無視したものでしかなくなる。
"wie es eigentlich gewessen"
とランケが述べた射程には、歴史をHeilgeschichteではなく、welt geschichteとして勝手な解釈を逃れたものにしようという試みがあった訳で、その意味でいうとある程度まで、「関東大震災を使うのが意味が無い」というのは正しい。だて違うんだもの。それに尽きるだろう。自然科学的なモデルを用いる限り、「一度きり」の歴史にしかならない。
ただ、歴史から何か学ぶものがあるとすれば(リアリスティックにないということも可能)、それはそこの根底に流れている精神史とも言うべきものなんじゃないだろうか。リッケルトが自然科学、もしくは歴史を自然科学モデルで理解するだけではなくて、歴史科学を文化科学という切り口で理解していこうという試みを行ったのも、そういう視点があったからではないだろうか。(無論、その試みが完全に有効であったわけではないが…。)
まま、とり急ぐとそんな感じでした。何ともまとまりがなくてアレですが…。